⑤
アパートの部屋はいつもと同じように散らかっていた。空き缶、煙草の吸い殻、食べかけのカップ麺――すべてがそのまま放置されている。だが、今日は何かが違っていた。
玄関を開けた瞬間、男は妙な違和感を覚えた。普段なら女がいるはずの部屋が、異様に静かだった。テレビの音も、すすり泣く声も聞こえない。
「おい、帰ったぞ」
声をかけても返事はない。
部屋の奥に目をやると、布団の中で小さく丸まった女の姿が見えた。だが、どこか様子がおかしい。布団の端から見える手はだらりと垂れ下がり、微動だにしていない。
男は急いで駆け寄った。
「おい、どうしたんだよ!」
女の顔は蒼白で、唇は紫色に変わっていた。そばには空になった睡眠薬の瓶が転がっている。
男は慌てて救急車を呼んだ。電話越しのオペレーターが冷静に指示を出すが、男の頭の中は混乱していた。
「意識はありますか?」
「いや、分からねえ……動かないんだよ!」
「呼吸はしていますか?」
「分からない! とにかく早く来てくれ!」
電話を切ると、男は女の顔を見つめた。冷たい汗が背中を流れる。
「おい、死ぬなよ……」
そう呟きながらも、心のどこかで別の感情が湧き上がってくるのを感じた。
彼女がいなくなれば、自分は自由になれるのではないか――。
その考えが頭をよぎった瞬間、男は自分自身に嫌悪感を抱いた。
「何考えてんだ、俺……」
彼は自分の頭を掻きむしりながら、震える手で女の肩を揺さぶった。
「起きろよ! おい!」
だが、彼女は何も答えない。
救急車が到着し、女は病院に運ばれた。男は廊下で待たされ、無数の時間が過ぎるように感じた。医師や看護師たちが忙しそうに行き交う中、男はただ無力感に打ちひしがれていた。
やがて医師が出てきて、短く言った。
「残念ですが、手遅れでした」
その言葉は、男の胸に重く響いた。
アパートに戻った男は、部屋の中をぼんやりと見渡した。彼女の気配がまだ残っているような気がした。布団のそばに転がっていた日記帳に気づき、手に取った。
表紙は擦り切れていて、中身はぎっしりと文字で埋め尽くされていた。
日記には、彼女の心の内が赤裸々に綴られていた。
「彼に必要とされるために生きてきた」
「私がいなくなったら、彼はどうするだろう」
「もっと頑張らなきゃ。私が支えなきゃ」
その文字を追うたびに、男の胸に重い石が積み上がるようだった。
彼女はずっと自分を必要としていた。そして、自分もまた彼女を必要としていたはずだ。だが、それを認めることができず、彼女を追い詰めてしまった。
「俺は……何をしてたんだ……」
男は日記を閉じ、立ち上がった。
台所に向かい、ライターを取り出すと、日記に火をつけた。小さな炎がページを舐めるように広がり、彼女の文字が黒く焦げて消えていく。
「これで俺は自由だ……」
男は呟いた。
だが、その言葉には何の実感もなかった。自由になったはずなのに、胸の中には虚無感しか残らない。
彼女がいなくなったことで、自分が何者でもなくなった。
夜が更け、部屋は再び静寂に包まれた。男はベランダに出て、煙草に火をつけた。冷たい風が彼の頬を撫でる。
「お前がいないと、俺は何もない」
そう呟くと、彼は深く煙を吸い込んだ。
煙草の火がじわじわと短くなり、やがて真っ暗な夜空に消えていった。
部屋の中には、ただ静寂だけが残っていた。