④
夜中、女のすすり泣く声が薄暗い部屋の中に響いていた。時刻は午前2時を過ぎている。隣の部屋からは時折夫婦喧嘩の声が漏れてくるが、そんな音も今は背景に溶け込んでしまうほど小さく感じられた。
男はベッドの端に腰掛け、煙草を吸っていた。女の泣き声を聞きながら、視線は床に散らばる空き缶や煙草の吸い殻を追っている。
「またかよ……」
男は呟き、煙を吐き出した。
「ごめんね……ごめんね……」
女は布団の中で縮こまりながら、何度も同じ言葉を繰り返していた。
「何が『ごめん』だよ」
男は苛立たしげに言ったが、声は抑えていた。自分が大声を出せば、女はもっと壊れてしまうかもしれない。それが分かっているからこそ、声を荒げることができなかった。
「私、何もできてない……あなたの役に立ててない……」
「そんなことないだろ。お前が働いてるから、こうして生活できてるんだ」
男は煙草を灰皿に押し付けながら言ったが、その言葉には感情がこもっていなかった。
女は顔を上げると、赤く腫れた目で男を見つめた。「本当に? 本当に、私が必要?」
その問いに男は一瞬黙り込んだ。そして、曖昧な口調で「必要だよ」と答えた。
日々、女の精神状態はさらに不安定になっていった。夜中に泣き出すことが増え、些細なことで怯えるようになった。
「今日は店長に怒られなかったかな?」
「私、ちゃんと笑えてる?」
「嫌われてないよね?」
女は何度も何度も、男に確認するような言葉を投げかけた。そのたびに男は適当な相槌を打ち、テレビの画面に目を戻した。彼女の言葉を真正面から受け止めるのが怖かった。自分には彼女を支える力などないと分かっていたからだ。
しかし、そんな日々が続くにつれ、男の中に苛立ちが募っていった。
「お前、いい加減にしろよ」
ある夜、女が泣き始めたとき、男はそう言い放った。
「だって……だって、私……」
女は涙を拭いながら、言葉を探していた。
「お前がそんなに泣いてたら、俺だってどうしていいか分かんねえよ!」
男の声が少し大きくなった。女はその声に怯えたように縮こまり、震えながら「ごめんなさい」と呟いた。
その姿を見て、男は深いため息をついた。苛立ちと自己嫌悪が混じり合い、胸の奥が重く沈むような感覚に襲われた。
男は夜中にベランダに出ることが増えた。女の泣き声を聞きたくないからだ。煙草に火をつけ、冷たい夜風を受けながらぼんやりと街の明かりを見つめる。
「俺は何をやってるんだろうな……」
彼は煙を吐き出しながら呟いた。
女を支えているつもりでいたが、それはただの自己満足に過ぎない。実際には彼女を利用しているだけだ。彼女が働き、彼女が食事を用意し、彼女が泣いて自分を必要としてくれる。そのすべてが、自分の無力さを隠すための都合のいい道具になっている。
「俺なんか、いなくてもいいんじゃないか……」
そう思うたびに胸が締め付けられるようだった。彼女を必要としているのは自分の方なのに、彼女にそれを認めることができない。
ある日、女が男に尋ねた。
「ねえ、私がいなくなったらどうする?」
その言葉は、男の心に鋭く突き刺さった。彼女の目は真剣で、何かを確かめるように彼を見つめている。
「そんなこと、考えたくもないよ」
男は短く答えたが、視線は彼女から逸れていた。その目には冷たさが滲んでおり、彼女の問いに正面から向き合うつもりがないことを物語っていた。
「そっか……」
女は小さく笑ったが、その笑顔はどこか歪んでいた。
「でも、私はあなたがいないと生きていけないよ」
「そんなことないだろ。お前だって強いんだから」
「違うよ……私、あなたがいないと、本当に駄目になっちゃう」
女の声は震えていたが、その中には確かな執着が込められていた。男はその言葉に何も返さず、ただ煙草に火をつけた。
その夜、女はまた泣いていた。男はいつものようにそれを無視し、テレビの画面を見つめていたが、胸の中の苛立ちは収まらなかった。
「俺がいなくなったら、あいつはどうなるんだろうな……」
心の中でそう呟きながら、彼は煙草を吸い続けた。彼女が自分を必要としていることに安心しつつも、その重さに耐えきれなくなりつつあった。
崩壊は、確実に近づいていた。