③
部屋の中は相変わらず散らかっていた。カーテンは閉め切られ、昼間だというのに薄暗い。窓際のテーブルには空き缶と灰皿が積み重なり、カップ麺の容器が無造作に置かれている。男はいつものように缶ビールを片手に、煙草をふかしていた。
その時、女がバイトから帰ってきた。彼女の顔色はさらに悪く、いつも以上に疲れて見えた。しかし、どこか落ち着かない様子で、玄関に立ち尽くしている。
「どうした?」と男が振り返る。
女は小さな声で「話があるの」と言った。
女はテーブルの向かいに座った。震える手で自分の膝を握りしめ、何度も言葉を飲み込むような仕草をした。男はイライラしたように缶ビールを飲み干し、「何だよ」とぶっきらぼうに言った。
「……私、妊娠したみたい」
その言葉が部屋の空気を一瞬で変えた。テレビの音が遠く感じられ、男は煙草を持つ手を止めた。
「は?」
「妊娠してる。病院で検査してもらったの」
女の声は震えていたが、どこか覚悟を決めたようでもあった。
男はしばらく黙っていた。缶ビールをテーブルに置き、煙草を灰皿に押し付ける。その動作はゆっくりとしていたが、彼の目には明らかな動揺が浮かんでいた。
「で、どうするつもりなんだよ」
「……産みたい」
女は涙をこらえながら答えた。「あなたとの子供なら、ちゃんと産んで育てたい。私、頑張るから……」
その言葉に男は顔をしかめた。怒りと困惑が混じった表情を浮かべ、苛立ちを隠そうともせずに言った。
「馬鹿かよ。俺たちが親になれるわけねえだろ」
女はその言葉に息を呑んだ。「でも……私たちだって、ちゃんとやれば……」
「何をどうやるんだよ。お前、現実見てんのか?」
男は声を荒げた。「俺たちがどんな生活してるか分かってんだろ。こんな部屋で子供育てるなんて無理だ。俺もお前も、そんな人間じゃねえんだよ」
女は涙を流しながら首を振った。「でも、私は……」
「堕ろせ」
男の言葉は冷たく、無感情だった。その一言が部屋の中に重く響く。
女は泣き崩れた。「どうしてそんなこと言うの……? 私たちの子供だよ。あなたと私の……」
「だからだよ!」
男は立ち上がり、声を張り上げた。「俺たちみたいな人間が子供を持ったら、その子がどうなるか分かってんのか? 俺の親もそうだった。お前の親だってそうだろ? 俺たちの歪んだ価値観がそのまま子供に移るだけだ。そんなの、地獄だろうが」
その言葉を聞いた女は、さらに泣きじゃくった。男の言葉には真実が含まれていたが、それでも彼女は受け入れられなかった。
「私は……あなたと一緒にいたいだけなのに」
「だったら堕ろせ。それ以外に選択肢はねえ」
男は再び座り、煙草に火をつけた。その目は冷たく、何も映していないように見えた。
翌日、女は堕胎の手続きをするために病院へ行った。男は同行しなかった。ただ、「行け」と一言だけ言い残し、テレビの前から動かなかった。
病院の帰り道、女はぼんやりと歩いていた。心の中は空っぽで、何も感じられなかった。手術は無事に終わったが、心の中にぽっかりと穴が開いたようだった。
アパートに戻ると、男が煙草を吸いながらテレビを見ていた。女は玄関で立ち止まり、呟いた。
「これでよかったんだよね?」
男は答えなかった。煙草の煙がゆっくりと天井に向かって消えていく。
女はその場にしゃがみ込み、静かに泣き始めた。彼女の涙の音が部屋の中に響くが、男は目を合わせることもなかった。
「お前がそう思うなら、それでいいんじゃねえか」
男の声は低く、どこか諦めたような響きがあった。
女はその言葉を聞いて、さらに泣き続けた。彼女の中で何かが壊れた音がしたが、それを修復する術は誰にもなかった。
夜、男はベランダで煙草を吸いながら、静かな夜空を見上げていた。彼の頭の中には、自分の幼少期の記憶が浮かんでいた。過干渉な母親、無関心な父親。その中で歪んでいった自分の人格。
「俺たちが親になるなんて、無理だったんだよ」
そう呟きながら煙を吐き出す。その煙が夜空に溶けていくのを見ながら、彼は心の中で何度も繰り返した。
「これでよかったんだ」
しかし、その言葉は彼自身にも届いていなかった。