無題小説1

アパートの一室は、男が仕事を辞めてからさらに荒れ果てていた。床には空き缶やコンビニ弁当の容器が散乱し、洗濯物は一週間以上放置されたままだ。窓を開ければ外の空気が入るはずだが、男はそれすら面倒くさがり、部屋には煙草の匂いと湿った臭いが充満している。

男は昼間から缶ビールを開けていた。テレビでは薄っぺらいバラエティ番組が流れているが、彼の目は画面を捉えていない。片手には煙草、もう片方にはぬるくなったビール。飲み干すと、彼は空き缶を床に放り投げた。

「帰ってきたよ」
女がドアを開け、疲れた顔で入ってきた。手にはスーパーの袋がある。今日もカップ麺と安い惣菜が入っているのが見えた。
「おかえり」と男は短く言ったが、顔はテレビの方を向いたままだ。
女は靴を脱ぎながら「疲れた」と呟く。声はか細く、すぐに消えてしまいそうだった。

「お前、バイト何時間やってんだよ?」と男が煙草を吸いながら尋ねた。
「今日は8時間。でも、休憩がほとんどなくて……」
「休めって言われてるだろ。お前が倒れたらどうすんだよ」
男の言葉は心配というより苛立ちに近かった。彼女が働けなくなれば、自分が生活に困る。それだけの理由だ。

女はその言葉を聞いて少し笑った。「大丈夫だよ。私、頑丈だから」
しかしその笑顔はどこか引きつっていて、目の下には隈が濃く刻まれていた。


夕食はいつものようにカップ麺だった。男がテーブルに座り、女はその前にお湯を注いだカップを置く。湯気が立ち上る中、男は箸を手に取るが、食べる前に缶ビールをもう一本開けた。

「お前、最近痩せたんじゃないか?」
男が箸を止めて女を見た。
「そうかな?」
「そうだよ。顔がやつれてる」
「でも、これくらいがちょうどいいよね。昔は太ってるって言われてたし」
女は笑いながら答えたが、男はそれに応えず、無言でカップ麺をすすった。

女は箸を動かさず、じっと男を見ていた。彼がカップ麺を食べ終えると、ようやく口を開いた。
「ねえ、私、ちゃんと役に立ててる?」
男は顔をしかめた。「またそれかよ」
「だって……あなたが仕事辞めてから、私が頑張らなきゃって思ってるけど、それでいいのかなって」
「いいも悪いもねえだろ。お前が働いてるから俺がこうしていられる。それで十分だろ」
「でも、私がもっと稼げれば……」
男は煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。「お前、無理すんなよ。倒れたら意味ねえんだから」

その言葉を聞いて、女はほっとしたように微笑んだ。しかし、その笑顔はどこか不安定で、彼女自身もそれに気づいているようだった。


数日後、女がバイトから帰ってきたとき、彼女の顔はさらに疲れ切っていた。
「また店長に怒られたの」と、彼女は小さな声で言った。
「なんでだよ?」と男が尋ねる。
「ミスしちゃった。レジのお釣りを間違えて……」
「そんなの誰にでもあるだろ」
「でも、店長は『もっと気をつけろ』って……」
彼女は話しながら目を伏せた。その肩が小さく震えているのを見て、男は煙草を灰皿に押し付けた。

「お前さ、あんまり無理するなよ」
「でも、私が働かないと……」
「俺だってそのうちまた働くさ」
その言葉には何の確信もなかった。男は自分が働きたくない理由を、女に説明する気もなかった。ただ、彼女の存在が自分を守ってくれるような気がして、それに甘えていた。

女はその言葉を信じるように微笑んだが、その笑顔には疲れが滲んでいた。


夜、女が寝た後、男はベランダに出た。煙草に火をつけ、静かな夜の街を見下ろす。隣の部屋からは相変わらず夫婦の喧嘩の声が聞こえてくる。彼はそれを聞きながら、ふと女の顔を思い浮かべた。

「俺がいなきゃ、あいつはどうなるんだろうな」
そう呟きながら煙を吐き出す。
彼女がいなければ、自分はもっと自由になれるかもしれない。しかし、彼女がいない生活を想像すると、何かが空っぽになるような気がした。

男は煙草を最後まで吸い切り、部屋に戻った。寝ている女の顔を見下ろしながら、彼は心の中で呟いた。
「俺はお前を支えてるのか? それとも、ただ利用してるだけなのか?」
答えは出なかった。ただ、彼女の存在が自分にとって必要であることだけは確かだった。

静かな部屋には、彼の吐息と、女の浅い寝息だけが響いていた。