「塵芥」

02

 貧民街――そこは人間の最も醜悪で、最も赤裸々な感情が渦巻く場所。犯罪と暴力、醜い欲望と汚れた金が交錯し、誰もが生き延びるために誰かを踏みつける。空気はいつでも淀み、腐った生ごみの臭い、鉄錆のような血の匂い、そして無数の叫びと嗤い声が混じり合う。何度訪れても慣れることなどできない。

 原因不明の連続失踪事件。それが私をこの街へ引き寄せた。こういった事件は大抵、強い願望を残し、そして死に損なった者たち――「心象の傀儡」とでも呼ぼうか――の仕業だ。彼らはもはや生者でも死者でもなく、ただ自身の歪んだ感情に操られている。その執念が強ければ強いほど、外の世界にまで影響を及ぼし、時に人をも呑み込む。だからこそ、彼らと対峙するのは常に厄介だ。感情だけで動く存在は、理屈や交渉では解決できないことが多い。

 犯人は案外すぐに見つかった。貧民街の裏路地、朽ち果てた建物の影に、黒い霧が揺らめいている。それは酷く不安定で、まるでこちらに手を拱いているようにすら見える。誘われるままに足を進めると、路地の最奥にたどり着いた。そしてそこで見たもの――それは、幼い少女の姿だった。

 いや、正確には「かつて少女だったもの」と言うべきだろうか。彼女はすでに人間の枠を超えていた。黒い霧がその身体を覆い、実体と虚像の境界を曖昧にしている。その手には黒い影でできた刃物が握られており、彼女の足元に転がる、動かなくなった肉塊を何度も何度も斬りつける。その行為には執拗さがあり、しかしどこか虚ろだった。

「…こんにちは、お嬢様さん。何をしているのかな?」  
努めて穏やかな声を装い、声をかけた。こういった対話は不得手だが、下手に刺激すれば事態がさらに悪化するのは目に見えている。慎重に、だが確実に彼女の願いを見極めなければならない。

「いま、悪い人をやっつけてるの!」  

 振り返った彼女は、明るい声でそう答えた。その声色には一切の罪悪感がない。むしろ、それは純粋な喜びに満ちていた。だが、その笑顔は冷たく歪み、声色とは裏腹に凍えるような恐怖を与えるものだった。顔は黒い霧に覆われているが、その奥で緑色の瞳がギラギラと光を放ち、鋭い視線が私を貫く。

「あなたも大人でしょう?悪い人はやっつけなきゃ!」  
その言葉には、無邪気さと狂気が同居していた。彼女は糸で操られる人形のようにゆらりと立ち上がり、こちらに向き直る。よく見ると彼女の四肢は歪な方向に曲がり、人間の形を保ちながらもどこか壊れている。彼女が死に至ったときの姿をそのまま引きずっているのだろう。その姿は見る者の胸を締め付けるようでもあり、彼女の狂気と悲哀を際立たせていた。

「ねえ、私は悪くないの。……ぜんぶ、全部全部、悪い大人たちのせいで!」
彼女の囁きは次第に怒りへと変わり、絶叫へと至る。


その叫びと共に周囲の黒霧が畝り、無数の刃となりこちらを襲ってきた。滅茶苦茶で粗雑な攻撃だが、その一撃一撃に凄まじい憎悪が込められている。それは彼女の短い生涯で受けた数々の苦痛と屈辱から生まれたものだろう。冷静にその攻撃をを捌き、躱しながら彼女を見据える。

「お嬢さん、君は――」
言葉をかけようとしたが、彼女の影の刃が容赦なく振り下ろされ、言葉は途中で遮られる。その一撃を避けたつもりが、死角からの刃が私の腕を掠めた。バキッ、と石が割れるような音が響く。腕を見ると深くヒビが入っていた。それに気づいた彼女の表情に、ほんの一瞬、驚きと罪悪感が浮かぶ。
その瞬間に確信した。彼女はただの傀儡ではない。確かに彼女の憎悪は本物だ。だが一方で、彼女の中にはもっと深い「本当の願い」が隠れている。それは憎しみを超えた、純粋で切実な願望。私はそれを見逃さなかった。

「お嬢…チッ、この喋り方は慣れないな…おい、お前。」
そう言いながら、私は彼女の攻撃の隙を突き、一気に間合いを詰めた。彼女の影でできた刃は鋭いが、その動きには隙が多い。まだ幼さが残る未熟な憎悪だ。私は低く問いかける。

「それが、本当にお前の願いか?」  

その一言に、彼女の瞳がわずかに揺れた。何かに怯えるように、彼女の体が一瞬の硬直を見せる。次第に動きが鈍り、鋭かった攻撃の刃が、徐々に力を失っていく。「……わたし、は……」  
やがて彼女は攻撃の手を止め、その場に崩れ落ちた。息を切らしながらも、彼女の姿にはどこか無力感が漂っている。彼女が落ち着くのを見届け、私はゆっくりとその心象世界を覗き込んだ。  

目の前に広がったのは、穏やかな白い花園だった。風が優しく吹き、花々の間をすり抜けるように揺れていく。その風景は美しく、どこか静寂に包まれている。彼女は茫然とその景色を見つめ、「…ここは……」と呟いた。その声には、何かを悟ったような、無力感が漂っていた。  

遠くには誰かの人影が見える。それは彼女より少し年上の少年で、手にはたくさんの食べ物や本を抱えている。彼の顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。彼女は驚いたように目を見開き、悲しげに何かを呟きながら、手を伸ばす。彼は、彼女にとって大切な存在だったのだろう。それを追う彼女の姿はどこか儚げだ。彼女は歪んだ脚を引き摺るようにして彼に近づこうとするが、どうしても彼には届かない。  
心象世界の幻影に触れることはできず、少年は彼女の手をすり抜ける。彼女の手が虚空を掴むたびに、その姿は遠ざかり、やがて霞のように消え去った。

「あ……ああ……」
彼女はその場に崩れ落ち、声を上げて泣き崩れた。その涙には、どこか無力さと絶望が滲んでいた。彼女が心の奥底で抱えていたもの、彼女が本当に求めていたもの、それが今、ようやく彼女自身の中で形を成し始めたのだろう。  

――成程。彼女の願いは単純だが、その切実さには計り知れない重みがある。この期に及んで、彼女がなおも復讐を望むのであれば、それはそれで滑稽だろう。しかし、今の彼女にはそれを口にする程の力は残っていないように思える。  

「問おう。汝の願いは何だ?」  

「…私は……」  

彼女は震える声で呟きながら、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には涙が溢れ、頬を伝うそれが、黒霧を静かに洗い流していく。やがて霧は完全に消え去り、そこにはあどけない、幼い少女の顔が現れた。その表情には後悔と悲しみ、そして一筋の決意が宿っている。  

「彼に……謝らなきゃ。あなたは悪くないよ、って……」

その言葉が彼女の口から零れた瞬間、心象世界は静かに、しかし壮大に崩壊を始めた。風の音もなく、白い花畑が光の欠片となり、空へと舞い上がっていく。彼女が作り上げた虚構の世界は、彼女自身の願いによってその役目を終えたのだ。  
私はその光景を見下ろしながら、冷ややかに微笑む。  

「精々足掻いてみせろ。汝の欲ある限り、その命尽きることはない。」  

目覚めた彼女は、長い眠りから覚めたかのようにゆっくりと起き上がる。闇から解放されたその緑色の瞳には、花のような模様が浮かんでいる。彼女は身体を見下ろすと、以前のように歪んだ四肢ではなく、普通の人間のそれに戻っていることに気付いたようだった。  

「四肢が歪んでいては不便だろう。これはおまけだ。」  

彼女はその言葉に驚いたように目を見開き、そして微笑む。その笑顔は、先程まで憎悪と狂気に囚われていた者とは思えないほど純粋で、無垢なものだった。

「ありがとう。」  

去り行く彼女の姿を見つめながら、彼女に与えるべき二つ名を考える。彼女の心象世界に咲き誇った花々、その純粋な願い、そして彼女が抱え続けた痛み。

「百花繚乱」――幾多の花が咲き乱れ、彼女の想いがその名の通り花開くことを願って。

だが、この時の私はまだ知る由もなかった。彼女がその後、どれほどの愚行を引き起こすのかを――その名に似つかわしくない、破滅の花を咲かせることになるとは。

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