目の前の少女――レモラは、日頃の賑やかで喧しい態度が嘘のように静まり返っていた。その沈黙は、彼女がまさに生と死の境目に立たされていることを物語っているようだ。先程まで全身を打ちつけた鈍い痛みに顔を歪めていたはずなのに、今ではただ虚ろにへたり込み、驚きに見開かれた瞳で私を見上げている。
「…随分と晴れ渡った青空だな。あれだけのことがあったというのに。」
私はふと目を空に移し、独りごちるように呟いた。ここは彼女の心象を映し出す世界――魂の奥底に潜む欲望や本質が露わになる場所だ。彼女は忌み子として母親と共に集落から追放され、そして母親に抱えられ崖から身を投げた。彼女のような境遇を辿った者たちの心象世界は大抵、憎悪や復讐の炎が燃え盛り、暴力的な光景が広がっている。だが、彼女の場合は違った。
そこに広がるのはどこまでも透き通った快晴の青空と、穏やかに波打つ浅い海。砂浜には人々の影が戯れ、一見すると普通に夏のひと時を楽しんでいるように見える。だが、その笑顔はどこか不自然だ。貼り付けられたような均一な笑み。まるで役割を演じるだけの操り人形のような表情が、この世界の歪みを物語っていた。私はレモラの隣に立ちながら、目の前の光景を静かに俯瞰する。
沈黙を破ったのは、レモラだった。「ママはどこ?」
その言葉に私は淡々と答えた。「死んだよ。運悪くな」
彼女は「そっか…」と小さく呟き、悲しみを感じさせるでもなく、ただ静かに目を伏せた。
彼女の母親が吐き出した欲望は実に浅ましくくだらないものだった。富や地位、名声――そして最後には、実の娘であるレモラを邪魔者で、醜い存在だから殺してしまえと。そんな感情を向けられた娘がこんなにも、痛々しいほどに無垢でいられるとは、何たる皮肉だろう。私は微かな哀れみを覚えつつも、その心象世界に再び目を向けた。
青空と海の他にも、いくつかのことに気がついた。ビーチにいる影たちは、必ず複数人で行動している。そして彼らの不自然な笑顔をよく見ると、その笑顔はどこか疲れや哀れみ、それから嘲りに似たものが滲んでいる。なるほど、彼女の生前の記憶にある「笑顔」というものは、おそらくこれが限界なのだろう。レモラは心からの「笑顔」を知らない。唯一の手がかりとなる母の微笑を元に、彼女なりの理想郷を創り上げているのだ。
私は静かに考え、ようやく一つの答えに辿り着いた。それは何とも単純で、私から見れば取るに足らないもの。だがそうでなくては二度目のチャンスをくれてやる価値などない。
私は振り返り、彼女に問いかける。「聞こう。汝の願いは何だ?」
「レモラのおねがい?」
彼女は顔を上げ、迷うことなく真っ直ぐに私を見据えた。彼女の瞳は黄色く輝き、その奥には決意と同時にどこか諦めにも似た悲しみが宿る。
「レモラはね、みんな仲良しになれたらいいのになあって、ずっと思ってるよ」
その瞬間、彼女の心象世界が崩壊を始めた。空は音もなく裂け、白い光がすべてを覆い尽くしていく。その崩壊は壮大でありながら驚くほど静かで、ある種の美しささえ感じさせた。
――それでいい。
私は口元に冷たい笑みを浮かべながら告げる。
「精々足掻いてみせろ。汝の欲ある限り、その命尽きることはない。」
身体が崩れ光となって消えていく中、彼女は突然手を伸ばし叫んだ。
「待って!まだあなたの名前聞いてない!レモラ、あなたともお友だちになりたい!」
予想外の言葉に、私は思わず目を見開いた。なるほど、実に彼女らしい。消えゆく彼女の姿を見送りながら、私はフードを深く被り、低い声で答えた。
「私の名は多い。だが今の私は――”アクタ”と呼ぶがいい。」
彼女は無垢であり、愚かであり――だからこそ面白い。彼女がその願いを抱えてどこまで行けるのか、その未来を見届けるのも悪くないだろう。彼女の光が消え、私もまたこの空間とともに霧散する中で、彼女に与えるべき二つ名を考えた。
「海闊天空」――広く穏やかな海と空。その名が彼女にはふさわしいだろう。
こうして、彼女の物語は動き出す。願いと命、それを裁く私の手の中で。
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