「あれ~?おっかしいなあ…」
古びた建物の前で足を止め、しばし首を傾げる。せっかく久々に村から脱走してきたので、羽を伸ばすべく街の人におすすめの場所を尋ねると、ほとんどがこの場所を差した。彼らが教えてくれた通りであれば、この建物こそが例の喫茶店のはずだ。午後の昼下がり、暖かな陽が降り注ぐ中で本来ならば店の灯りが点いているであろう時間なのだが、窓越しに中を覗いてみても店の中に人の気配はない。コーヒーが美味しいという噂を聞いて遠路はるばるこの店を訪れたが、どうやら今日は違うようだ。ため息とともに肩を落とし、仕方がないと引き返そうとしたが、何かがおかしい。何かが気になる。
店の前に立ち続けること数分、ふと周囲を見回した。そもそもここは人通りのあるような場所ではなく、この喫茶店以外に建物は見当たらない。こんな辺鄙な場所にある店について良い噂話が流れることにも些か疑問が残る。店の周囲をゆっくりと歩き、やがて裏手に回り込むと、苔まみれでツタが這う一つの扉が目に留まった。外から見ても特に目立たないが、そこは確かに裏口だろう。好奇心に駆られ、そっとドアノブを回すと、金具のきしむ音が耳に響く。扉はまるで拒むことなく開かれた。暗がりの中、慎重に足を踏み入れる。
店の中は薄暗く静かだったが、窓から差し込む午後の日差しがほんのりと室内を照らしている。机や椅子はきれいに整えられていたが、よく見ると薄く埃が積もっていた。いつから使われていないのだろう。まるで、時が止まったかのような、あるいは最初から誰もいなかったかのような風景だった。カウンターの背後の棚には、色褪せた小さな観葉植物が置かれている。あれはこの店の様子をずっと見ていたのだろうか。その葉ももう揺らめくことはなく、ただじっと佇んでいるだけだった。
ふと視線を戻すとさらに奥の一つの扉に引き寄せられる。店主の私室だろうか?ここにも何かがある気がしてならない。もし、ここに店主がいたらどうしよう――などと心の中ではためらいながらも、結局好奇心には勝てず、扉を軽く開き隙間から中を覗き込んでみる。そこにはやはり、静かで誰もいない部屋が広がっていた。午後の陽光がカーテン越しに差し込んでおり、部屋の一角に置かれた花瓶が目に入る。部屋に入り間近で見てみると、丁寧に花瓶に入れられているそれは造花だった。しかし、その白い花は、まるで本物の花のように生き生きとして見える。
部屋の中を見回しても、他には特に目立ったものはない。埃が積もっている床と、長らく閉ざされていたのだろう、金具が錆び始めている窓。そして、唯一目を引く白い造花。その場に立ち尽くし、しばし考え込んだ。部屋の中はしばらく放置されているような有様なのに、この花だけはまるでつい先ほど誰かが手入れをしたのかと疑うほどの存在感を放っている。静かに目を閉じ、しばしその場の空気に身をゆだねる。夢から醒めたように目を開くと、既に日は傾き始めており、名残惜しくも店を後にすることにした。
春の夕方、空には淡いオレンジ色が広がり、柔らかな春の風が吹いている。いよいよ暖かくなり始め、生命が再び息を吹き返す頃だろう。枯れかけていた植物もまた、次第に新しい息吹を取り戻し、成長していく。歩きながら、ふと振り返ってあの店をもう一度見た。しかし今度は何も特別なものが見えない。ただの、古びた喫茶店がそこにあるだけだった。ゆっくりと伸びをして肩の緊張を解き、誰に言うでもなく楽しげに呟いた。
「…あ~っ、人間ってなんて面白いんだろう!」
ꕤ