「百花繚乱」- 04

 いつからだろうか、最近、彼の様子がどうも落ち着かない。ふと立ち止まり、ぼうっと空気の中に心を漂わせるような瞬間が増えた。そうかと思えば、すぐにハッと我に返って、何事もなかったかのように振る舞う。その瞳にはどうしても隠し切れない疲労の影が見えた。夜になると、彼はカウンターに身を沈め、まるでそこが最後の拠り所であるかのように目を閉じる。しかし、あれが果たして本当に眠れている状態なのかどうか、私には判断がつかない。彼の表情はどこか不安定で、虚ろに見える。あの浅い眠りが心身に影響しているのかもしれない、と気がかりになる。

 そんな彼の様子を見かねて、夕食時にそのことを持ち出してみた。彼と向き合いながら、最近の気の抜けたような瞬間について話すと、ふと、今私が使っている客室は元々彼の部屋だったのではないか、という疑問が頭をよぎった。部屋には幼い頃の彼の写真が置かれていたし、なによりその空気には、ただの客室に収まりきらない懐かしさが漂っていたからだ。私がそのことを彼に尋ねてみると、彼は少し唸り、図星をつかれたような表情を浮かべた。察しの通り、彼はこの部屋を私のために明け渡していたらしい。

「横になったら眠れないというのは、君が気付かなかっただけで、今は改善されているんじゃないか?」

 それを聞くと彼の表情には少しだけ暗い影が差した。小さく息をつき、そうだな、と呟く。とはいえさすがに女性の使っていたベッドを今更使うのは気が引けるのか、今夜はソファへと寝具を運び、そこで眠ることになった。

 夜が更け、彼が静かに横たわったのを見計らい、私はそっと部屋の扉を開けて彼の様子を窺う。安心できるはずの眠りが、彼にとって本当に安らぎをもたらしているのか、どうしても確かめたかった。そんな思いが胸に膨らむ中、低く苦しげな唸り声が聞こえた。彼の方を見ると、毛布を頭からかぶり、その中でガタガタと震えている。手で頭を押さえ、必死に何かから逃れようとしているかのようだった。呼吸が荒く、短く、まるで息を吸えなくなってしまったかのような苦しげな様子は、どう見ても安らかな眠りには程遠い。私は居ても立ってもいられず彼に近づき、震える彼の肩を優しく叩いた。

 彼は肩を震わせて素早く起き上がると、何か恐ろしいものを見たかのように手で顔を覆い、深いため息をつく。そして、ただ黙り込み、言葉を失ったかのように目を伏せた。その手がかすかに震えているのがわかり、なんとも言えない苦しみが胸に広がる。私は彼のために一杯の水を注ぎ、卓上には小さな炎の揺れるランタンを置き、黙ってその背中をさすった。彼は暗がりの中で彼は長い沈黙に沈んでいたが、どこかにわずかながら罪悪感を抱いているようにも見えた。

 今になって、私の「死」を彼に見せてしまったことが、彼をここまで追いつめ、苦しめていたのだと痛感させられる。彼の記憶に残るべきではなかったもの、彼が忘れていてもいいはずのものが、今も彼を蝕んでいる。彼を救いたいと、そう願っているはずなのに、私が彼を苦しめる原因になっている。その深い後悔の念が胸を突き刺すように溢れ、私は暗がりの中で黙って彼に寄り添うことしかできなかった。

 その日、喫茶店にはいつものように精神科医の女性が現れた。彼女は隔月に一度、彼の治療と称してやってくる。店の前に車を停め、扉の外で丁寧にお辞儀をしてから、決まった席につく。来客用の紅茶を置かれるとまた丁寧に感謝を伝えたが、それを口にすることはないまま会話を始めた。彼女の話し方は落ち着いていて、どこか空虚な響きを帯びている。彼女の前に座る彼もまた、その声に曖昧に頷きながら答えていたが、その表情にはどこか不安定な影が差していた。彼の目がふと虚空を彷徨うとき、その視線はまるで私と彼女を重ね合わせるように見える。

 彼女はしばらく彼と短い会話を交わした後、手慣れたようにテーブルの上へいつもの薬の瓶を置いた。茶色の瓶の中には白い錠剤が詰められており、それを手でさしながら彼女は淡々と用法を告げる。それも、何度も言い慣れている言葉を繰り返しているだけの機械のようだ。その言葉に彼が小さく頷くと彼女は静かに立ち上がり、まるで役目を終えたかのように店を出ていった。医師を見送る彼のその瞳の奥には、わずかな疑念が浮かんでいるように見える。私もまた、彼女が去った後のテーブルに残された薬瓶の数々をじっと見つめる。これは彼を救うためのもののはずなのに、どうしてこんなにも重々しく、冷たく感じるのだろうか。

 彼女の去りゆく背中を見送りながら、ふと、あの冷たい目を思い出す。彼女の言動を鑑みても、彼を治そうとする熱意や彼の症状に対する共感などは微塵も感じられない。それどころか彼女の目に映る彼の姿は、患者というより、ただの「観察対象」に過ぎないかのようだ。彼女のまるで貼り付けたような、無機質な微笑みを思い出すと、私は思わず背筋が凍る。彼女は元より彼を救うつもりなどなく、ただ何かを「試す」ために彼を利用しているのではないか。そんな疑念が次第に私の心にじわりと滲み始めていた。

 彼は机に並べられた瓶と口の付けられていない紅茶を手に取り、しばらく眺めた後、やるべき仕事へと戻った。その指先が瓶に触れる様子には、どこか迷いが感じられる。まるで彼が薬を通じて、自分自身をも見失いかけているかのようだ。私は、どうにか彼にかけるべき言葉を探していたが、それが見つからない。今の彼にはどの言葉も、何の行動も彼に届かないように思えてしまう。車が去り行く音が遠ざかると、彼の孤独な背中が、ひときわ痛々しく感じられた。

←前へ   ꕤ   次へ→

作品ページへ戻る