「百花繚乱」- 03

 秋の風がそっと私の髪を揺らし、心地よい冷たさを運んでくる。この日、私は青年と市場へ出かけるところだった。彼と並んで歩き、手を繋ぐ。その手の温もりに支えられながらも、私の心の奥底には小さな不安が残っていた。目の前に広がる市場は、かつて生きていた頃の私にとっては夢のような場所だった。活気に満ち溢れ、色とりどりの食べ物や衣類、珍しい土産物が並ぶその光景を、私は何度も遠くから眺めていた。貧しい人間には、そこにあるものが一生かかっても手に入らないものだと知っていたからだ。

 市場の入口に足を踏み入れると、あの頃の記憶が次々と甦ってくる。人々のざわめきや、果物とパンの甘い香り、衣料品店の軒先に揺れる布たち。それらはすべて懐かしいのに、どこか現実感がない。明日の生活が分からない、明日の食事も保証されない人間は私以外にも多くいて、この市場の喧騒に影を潜める者も少なくなかった。店主や客たちの隙を見つけ、食料を盗むために。私も同じ立場だったし何度も盗みを働くよう指示されたが、それでも盗むことはできなかった。盗むという行為が悪いことだと、幼いながら理解していたからだ。

 だから目の前で真っ赤な林檎が盗まれたとき、私はそれを見過ごすことができなかった。大きな布に身を包んだ男が店の横を歩き、ただ自然にそこにあるものを布の内に隠すのが目に映る。男が盗みを働いたと叫ぶと彼はすぐ周囲の人間に押さえつけられて、そのうちに警察隊に引き渡されていた。彼が最後に私へ向けた恨みと憎しみのこもった視線。それを思い出すたび、私は胸が痛む。彼の境遇を思えば、彼にとってあのたった1つの林檎は命の糧だったかもしれない。それを奪ってしまったのだ。彼に悪意があったわけではない。ただ、生きるために必死だったのだ。

 ふと、私は現実に引き戻された。隣にいる青年が私の様子に気づいていたらしく、いつの間にかいくつか林檎を手に取り店主へ買う旨を伝えているところだった。驚いて彼を見上げると彼は私を見つめて微笑む。彼のその笑顔に、私は今はもうあの貧困の苦しみに囚われなくてもいいのだと安心する。彼はきっと私の生活までは知らなかったはずだ。それでも”普通”に接してくれる彼を見て、不思議と心が温かくなるのを感じた。

 市場からの帰り道、心地よい昼の空の下で、彼がふと呟く。
「何だか、本当に家族みたいだ。」
その言葉に、私は思わず足を止めてしまった。彼の言葉は私の心に深く響く。そうだ、これが”普通の”家族の幸せなんだ。でも、この幸せだって永遠に続くわけじゃない。いつか私がいなくなる時が来る。もしかしたら彼の方が先に消えてしまうかもしれない。何方にせよその日が来る前に、彼に全てを話して謝らなければならないのだ。

 だが、今は――今だけは、そのことを忘れさせてほしい。この瞬間だけは、無垢な少女のままこの幸せを感じていたい。彼が手を差し伸べてくれたこと、その手が温かく私を包んでくれること、それが私にとって何よりも大切なものだった。私には、彼を救いたいという願いがある。だが同時に、彼と共に過ごすこの平穏な時間が、何よりも愛おしい。そう思うと、胸の奥から温かい気持ちが湧き上がってきた。

 私は急いで彼に追いつき、彼の手を強く握り返した。彼はただ私の手を握り返してくれる。その手の温もりが、私にとってはすべてだった。

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