「コーヒーミル頭の男」- 04

 その日は店を休むことにして、少女と共に市場へと出かけた。季節は秋に差し掛かり、色鮮やかな食材が所狭しと並んでいる。風はやや冷たくなりつつあるが、秋特有の心地よさが漂う。賑わう市場の中で、私は少女の小さな手をしっかりと握り、彼女が迷子にならないように気をつけて歩いた。人々の談笑と店先に並ぶ秋の味覚が、久しぶりに外の世界に触れる私を少しだけ浮き立たせる。市場の活気に満ちた雰囲気の中、どこか穏やかで、のんびりとした時間が流れていた。

 ふと足を止め、果物が並ぶ屋台を見ていると、少女が真っ赤な林檎をじっと見つめていることに気がついた。彼女の視線の先にあるそれは艶やかで美しく、秋の恵みそのものだ。私は一瞬、まるで自分が彼女の父親であるかのような感覚に囚われた。特別な意図があったわけではないが、私は自然と屋台の店主に声をかけ、いくつかの林檎を買うことにした。少女は驚いたようにこちらを見上げ、まるで期待に胸を膨らませる子どものような表情を浮かべる。その無邪気な反応に、私は少しだけ笑ってしまう。紙袋の中に野菜と共に積み上がった林檎を見て、彼女は嬉しそうに微笑んだ。いつもの静かな彼女とは少し違っていて、そこには素直な喜びが滲んでいた。

 帰り道、心地よい空気の流れる中で、私はふと思いのまま呟いた。
「何だか、本当に家族みたいだ。」
後ろを少し遅れて歩いていた少女がその言葉を聞き、ほんの一瞬だけ足を止めたのが分かった。しかしすぐに彼女は歩みを早め、私に追いつくと、強く手を握り返してきた。顔を上げ、はにかみながら言った。
「なあ、午後にはアップルパイでも焼かないか?」
その提案に私は頷き、秋の柔らかな風を感じながら、胸に広がる温かな感覚を味わう。ささやかな幸せがじんわりと心に染み渡るのを感じつつ、市場からの帰路を共に歩いた。

 ある夜、私はいつものように薬を飲み、カウンターに寄りかかっていた。暗闇が店内を包む中、ランタンの灯りがわずかに揺れている。静けさに包まれているはずの空間にふと気配を感じて顔を上げると、暗がりの向こうから少女がこちらをじっと覗いていた。彼女は何かを考え込んでいるように見え、目が合うとゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。その瞳には心配の色が浮かんでいる。
「君はいつも、夜に眠っていないように見えるが…大丈夫か?」
彼女の声が、静かに店内に響いた。

 その言葉を聞いた瞬間、私は思わず息が詰まった。そういえば、いつからだろうか。横になって眠ることが、異常なほど恐ろしく感じるようになったのは。かつては普通に眠れていたはずなのに、ある日を境に、眠りにつくのが恐怖に変わった。眠れば悪夢に苛まれ、目が覚めてもその記憶が鮮明に残る。そんな夜が続くうちに、眠ること自体が恐ろしくなり、結局、目を閉じることすら避けるようになったのだ。そのことを思い出しながら、彼女に何か答えようと口を開いたが、声が出ない。喉が締めつけられるように詰まり、言葉が消えていく。何か大切なことを思い出しかけている。それが頭の中で薄らと浮かんでくるが、もしもそれを思い出してしまえば、自分が壊れてしまうような気がしてならなかった。

 気付けば少女は私のすぐ側にいた。彼女は私の表情を見て、何か異変を察知したのだろう。私の顔をじっと見つめ、静かに手を伸ばして頬に触れた。その仕草には、何も言葉にしない優しさと哀れみが込められていたように感じられた。彼女は小さな声で
「すまなかった。だが無理だけはしないでくれよ。」
と呟いた。その声は、妙に落ち着いていて、私の混乱した心を少しずつ和らげていくようだった。緊張が解け、私は安静を取り戻したが、手の震えだけは止まらない。それをじっと見つめるうちに、何か得体の知れない不安が胸の奥でじわじわと広がっていくのを感じた。

←前へ   ꕤ   次へ→

作品ページへ戻る