何でもない、特別な日

 この日はクリスマス。街を歩く誰もがそれを知っているかのように、明るい装飾と浮かれた人々の笑顔が溢れていた。二人もまた久方ぶりに街へ出ていたが、この祭日の意味をよく知らないようだった。だが、賑やかな景色に触れ、今夜は少しだけ贅沢をしようという思いが自然と芽生えたのだろう。

家へ戻ると、二人は意気揚々と食事の準備を始める。少女は二人分の食器を並べ、男は慣れた手付きで料理を仕上げていく。テーブルには、香ばしいローストビーフ、サクサクのミートパイ、湯気の立つポトフ、そして鮮やかなサラダが次々と並べられる。七面鳥の姿はないが、二人きりの食卓には十分すぎるほどの豪華さだった。

 ふと、男の視線がカウンターへ向かう。そこには、数日前の買い物で手に入れたリキュールの瓶が置かれていた。人気の商品だと聞き、興味本位で買ったものの、彼女の前で酒を飲むことにためらいがあったのだろう。それでも今日は特別な日だ。彼は瓶をテーブルへ運び、その封を慎重に開けた。

 少女の目が輝く。目の前のご馳走に夢中になり、ひと口ごとに幸せそうな笑みを浮かべるその姿は、何よりの祝福だった。彼はグラスに注がれた琥珀色の液体を口に運び、ほのかな果実の甘みと苦味が口内に広がるのを味わった。心地よいアルコールが体を温める。最初は一杯で止めるつもりだった。だが、彼女が「私が注いであげるね」と笑顔で言ったとき、彼はその言葉に抗う気力を失った。二杯、三杯…気づけばその数は増えていく。

 食卓の皿が次第に空になり、部屋に静けさが訪れる。男の視界が次第に霞み始める中、忘れていた記憶がゆっくりと浮かび上がった。幼い頃、クリスマスに欲しいものをねだったときのこと。返ってきたのは、「贅沢を言うな」「そんなことより勉強をしなさい」という冷たい言葉だけだった。プレゼントを手にした記憶など一度もない。胸の奥に潜んでいたその寂しさが、アルコールの波に乗ってじわりと顔を出した。

目の前には少女の姿がある。だがその輪郭は揺れ、霞み、夢か現かも曖昧だ。彼女は空になったグラスに再び酒を注ぐ。その仕草はやけに静かで、優しい。男は感謝の言葉を言おうとしたが、その声は喉の奥で消えた。ただ、差し出されたグラスをまた口に運ぶ。その液体が喉を通るたび、視界が鮮やかに染まり、心地よい酔いが全身を包みこんだ。

 ふと気付くと、彼の頬には一筋の涙が伝っていた。熱を帯びたその雫が、何を意味しているのかは本人にも分からない。酒に溶け込むようにして訪れた多幸感の果てか、それとも胸の奥から湧き出た、触れることすら忌まわしい記憶の断片か。視界は揺れ、霞み、その中で彼女はなおも酒を注ごうとする。  

「もういい」…そう言うべきだと、彼は頭の片隅で理解しているようだった。しかし、彼女の表情に浮かぶ微笑みはどこか奇妙で――慈しみに似た柔らかさの中に、どこか冷たい確信めいたものが宿っている。その顔を見た瞬間、彼の震える手は止まらない。まるで彼自身の意志に逆らうかのように、杯を掴み、口へと運ぶ。アルコールの熱が喉を通り、全身にじわじわと広がる。

快楽と焦燥――相反する感情が同時に胸を満たす。そこには怒りのような苛立ちも、悲しみのような哀切も混じり合い、ひとつに溶け込んでいる。心拍は上がり、熱が身体を覆い尽くす。涙は止まることを知らず、彼の顔を濡らしていく。  

「あは…は…」  

引き攣った笑い声が、部屋の静寂を裂く。だが、それも束の間のことだった。それは徐々に呻き声に変わる。喉の奥で押し殺すような声が次第に大きくなり、嗚咽へと至る。拳を握りしめ、荒い息を吐きながら卓上を見つめるが、その視線はどこにも焦点を合わせていない。ただ虚ろな目が、空間を彷徨うだけだった。  

 彼女はもう酒を注がない。代わりに彼の隣に腰を下ろし、そっと抱きしめた。腕の中に彼を包み込みながら、耳元で甘く囁く。  

「頭の中、ふわふわして気持ちいいね。もっと泣いていいんだよ…」  

 その声は天使の慰めにも、悪魔の誘惑にも聞こえた。どちらにせよ、彼女は穏やかに微笑んでいる。その微笑みは、彼の涙と嗚咽の混ざった醜態を見ても揺らぐことがない。

彼は涙でぐしゃぐしゃになった顔を晒しながら、嗚咽に混じる息切れで肩を上下させていた。赤く染まった顔には生気の欠片も見えない。彼女はそんな彼を抱きしめ続ける。背中を摩る手の動きは、優しさとも執着ともつかない。  

 次第に彼の呼吸は浅く、頼りないものへと変わっていく。その様子を見た彼女は、静かに席を立ち、コップに水を注ぎながら薬瓶を手に取った。薬瓶の中には、小さな錠剤がいくつも詰まっている。彼の前にそれを差し出すと、彼は震える手で瓶を傾け、無造作に薬を取り出した。そして、コップの水と共に一気に飲み干す。  

その量は明らかに過剰だった。意図的なのか、それとも無意識の行動なのか――それを知るのは彼自身すら難しいのかもしれない。彼女はそんな彼の姿を見つめ、まるで母親が幼子をあやすように優しく微笑む。そして、彼の頭にそっと手を伸ばし、柔らかく撫でる。  

「いい子だね」  

その声には、慈愛とともにどこか底知れぬ満足感が滲んでいる。  

 薬の効果がじわじわと彼の身体に広がり始める。それに酒の酩酊が重なり、彼の意識は次第に朦朧としていく。視界がぼやけ、頭の中は霧に包まれたようだ。やがて彼は、彼女の肩に凭れかかるようにして、ゆっくりと眠りへと落ちていった。  

 普段、彼が眠る姿を見ることは稀だった。目の下には深く刻まれた隈があり、それが彼の日々の疲弊を物語っている。それでも今、彼は眠っている。安らかとは言えない表情だが、それでも確かに眠りの中にいる。  

――これが彼女の目的だったのか。  

彼女は、眠りに落ちた彼をそっと見下ろす。その顔には、満足げな笑みが浮かんでいた。やがて彼女は彼の隣に横たわり、その身体に身を寄せる。完全に意識を失った彼に抱きしめられながら、彼女は静かな幸福に浸るような表情を見せる。彼らはそのまま、身を寄せ合いながら夜の闇に沈んでいった。部屋の中には、二人の浅い呼吸が交互に響いているだけだった。

 翌朝、彼はソファに身を投げ出すように横たわっていた。顔色は青白く、生気を失ったようなその表情は、昨夜の無茶がどれほどの代償を伴ったかを如実に物語っている。少し前に盛大に胃の中身を戻したばかりで、今の彼に残っているのは虚脱感だけだった。

彼は呻きながら頭を抱える。酒の酔いと薬の効き目が去った後に残るのは、耐え難い頭痛と身体のだるさだけ。卓上に置かれたままのグラスと薬瓶が、昨夜の出来事を物語っている。

彼女はそんな彼の姿を見て、まるで悪戯がバレた子どものように「あちゃあ」と声を漏らした。その表情にはどこか悪びれない笑みが浮かんでいる。

「ちょっとやりすぎちゃったね」

彼女の声はどこか悪びれた様子もなく、むしろ楽しげだった。軽く肩をすくめながら、彼の近くに歩み寄る。そして、まるで猫をあやすように、そっと彼の頭を撫でる。

「今日はゆっくり休むんだよ?」

柔らかな声でそう言いながら、にっこりと微笑む。その表情は天使のように無垢で、しかし同時にどこか底意地の悪さを感じさせるものだった。

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