チューベローズの咲く頃に

 深夜、闇に溶け込むような黒い車が、人気のない山道を静かに走っていた。ヘッドライトが細い道を切り裂くように照らし出し、その光の外側には深い影と暗闇が広がっている。運転席の男は片手でハンドルを操り、もう片方の手で缶コーヒーを口に運ぶ。その仕草には何か慣れた無造作さが漂っていた。隣に座る女は、両手で缶のココアを大事そうに抱え、一口飲むごとに微笑み、満足そうな吐息を漏らす。その息が車内のガラスを曇らせ、淡い白い痕を残して消えていった。

 車内には缶が転がる軽やかな音と、低く規則正しいエンジン音、そして女の鼻歌が微かに響いている。その音たちは互いに溶け合い、どこか心地よい小さな世界を作り出していた。彼らはこの日、わざわざ街外れの山まで、星空を見にやって来たのだった。

 やがて車は山頂に到着した。男はエンジンを切り、二人は車を降りる。冷たい空気が一気に押し寄せ、女は白い息を吐きながら「寒いねえ」とポツリと呟く。その声に応えるように、男は黙って微笑み、彼女の手をそっと自分のポケットへと引き寄せた。そこには街の明かりは届かず、ただ漆黒の夜空には無数の星が浮かんでいる。星の海に飲み込まれるような圧倒的な光景に、二人は思わず見上げた。空を指差し、何かを語り合う声は極めて小さい。それは、他の誰にも聞かれることのない、二人だけの密やかな世界のようだった。

 しばらく星を眺めていると、男が小さくくしゃみをした。その音が夜の静寂に溶け込む。それを聞いた女は「もう車に戻ろっか」と提案し、二人は再び車へと戻った。男は運転席に戻り、エンジンのスイッチを入れ直すこともなく外を眺めていたが、女は後ろの荷台を開け、何やら探り始める。そして、見つけたものを小脇に抱え、意気揚々と助手席へ戻ってきた。「じゃーん!」と笑顔で掲げたそれは、小さな七輪と練炭だった。彼女はその得意げな顔を男に向けたが、彼は特に驚きもせず、ただ再び星空に目を戻した。その無関心さに女は不満そうに頬を膨らませたが、すぐに笑みを浮かべて助手席に腰を下ろした。

 やがて七輪に火が灯され、後部座席に置かれると、車内にはじんわりと暖かな空気が漂い始める。ほのかな炭の香りが漂い、それと共にかすかな煙が車内を満たしていった。彼らはその中で小さな声で談笑を交わし、穏やかに時間を過ごしていた。やがて女が「ちょっと苦しいかも、窓開けていい?」と問うと、男は「馬鹿だなあ」と呆れたように笑いながら答える。その声にはどこか愛おしさが滲んでいた。

 車内はやがて静寂を取り戻し、二人は座席を倒して眠る姿勢を取る。夜空を背景にした車内は、まるでこの世界から切り離されたように見えた。女がぽつりと呟く。
「ねえ、明日起きたら何する?」
その問いに男は少しの間沈黙し、それから静かに答えた。
「……そうだな、コーヒーでも入れようか。」
その言葉に、女は満足そうに微笑む。
「私も起こしてね。」
そう告げる彼女に、男は何も答えない。ただそっと彼女の手を握りしめた。彼女はその感触に安堵したように目を閉じた。

 しかし、彼らは誰よりも知っているのだろう。自分たちに明日はないということを。彼らはこのまま、煙の中で静かに息を止めることを選んだのだ。それは絶望からの逃避であり、彼らにとって一つの救いでもあったのかもしれない。外では尚も星が瞬いている。無数の星々は、この儚い選択をただ黙して見守っている。夜明けはまだ遠い。

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