③
それから、私と彼の密会は私にとってかけがえのない日常となった。彼は毎日、バッグに食べ物や本を持って現れ、私はその食べ物をありがたく受け取り、本の知識を教えてもらう。ほんの少しの時間だけ話し、「また明日」と別れる。それだけの関係だったが、その短いひとときは、暗闇の中で唯一輝く光のようだった。地獄のような日々を生き抜くための、たったひとつの希望だった。
彼は時折、自分で作ったらしいお菓子を持ってきて、私に味見をさせた。焼きたてのクッキーや、小さなパウンドケーキ。どれも不格好だったが、彼の手作りだと思うと、それだけで胸が温かくなった。「どう?どう?」と興味津々で私の感想を聞いてくる彼に、「美味しいよ」と答えるたび、彼は声を上げて嬉しそうに笑った。その笑顔を見るのが、私の密かな楽しみになっていった。
ある日、彼は瓶に詰まった黒い粉を持ってきた。「これは何?」と尋ねると、彼は得意げに「コーヒーだよ!これが飲めたら大人の証なんだってさ」と答える。どうやら家からわざわざ持ってきたらしい。彼は小さなマグカップを二つ取り出し、それぞれにお湯を注いで黒い液体を作り、ひとつを私に手渡した。
「…にがい。」
一口飲んだ瞬間、思わず顔を顰めた。彼も同じように顔をしかめて、しばらく沈黙が流れたが、次の瞬間、二人とも吹き出した。苦いコーヒーの味がどうでもよくなるほど、笑いが止まらなかった。
「僕たちが大人になる頃にはさあ、これが美味しいって思えるのかな」彼が呟いたその言葉に、私は少しだけ未来を想像した。私には希望も何もなくとも、どうか彼には明るい未来が在ってほしい。「そうだね」と返すと、彼は満足げに微笑み、私も自然と笑みを浮かべていた。彼と一緒なら、どんな困難も乗り越えられる気がした。
そうして一年ほど、そんな日々が続いた。晴れの日はもちろん、雨の日も止んだ後を見計らって会うようになった。季節が移り変わる中、彼との時間だけが変わらず穏やかに流れていた。暑さが落ち着いて連日天気が荒れる日も、窓に打ちつける雨音を聞きながら、早く彼に会いたいと願う日々を過ごした。
しかし、ある日を境に、彼はぱたりと姿を見せなくなった。待てど暮らせど、あの花園に彼の姿は現れない。晴れた日も、雨の日も、風の強い日も、私は毎日のように花園へ足を運んだ。彼が笑顔で「また明日」と言って走り去ったその場所に立ち、彼の姿を探し続けた。
けれども、彼はどこにもいなかった。
不安が胸を締めつけた。もしかして、私のことが嫌いになってしまったのだろうか?何か気に障ることを言ってしまったのだろうか?そう思うたびに心が暗く沈み、足元の花々さえ色褪せて見えた。
彼と過ごした日々の記憶が、鮮やかであればあるほど、彼がいない現実は冷たく、孤独だった。どれほど祈っても、どれほど待っても、彼は戻ってこない。彼の笑顔、彼の優しさ、彼の存在が、私の中でどれほど大きな意味を持っていたのかを、痛いほど感じていた。花畑に吹く風はいつもと変わらず優しかったが、その温もりはもう私を癒すことはなかった。
彼はどこへ行ってしまったのだろう?もう二度と会えないのだろうか?そんな考えが頭をよぎるたび、胸の奥にぽっかりと空いた穴が広がっていくようだった。
ꕤ