②
食事を終えると、穏やかな風が頬を撫で、花畑の甘い香りがふわりと漂ってきた。満腹感が身体を満たし、心の奥までじんわりと染み込んでいく。食事とはこんなにも幸せなものだったのかと、私は初めて知った気がした。空腹を抱えて生きる日々では決して味わえなかったこの感覚に、胸がじんと熱くなる。
そんな私をよそに、彼は余った具材や敷物を手際よく片付けながら、ふと問いかけてきた。「きみは何でここにいるの?」その無邪気な声に、私は一瞬息を呑む。何と答えればいいのだろう。この無垢な少年に、自分の醜い過去を知られるのが怖かった。自分の汚れた人生が、彼の澄んだ瞳に映るのを想像するだけで、いたたまれない気持ちになる。
「…ちょっと、母親と喧嘩しちゃって。」口をついて出たのは、とっさの嘘だった。怪しまれるかもしれないと不安になったが、彼は予想に反してホッとしたような顔をし、そして嬉しそうに「僕と一緒だ!」と声を弾ませた。
彼は促されるでもなく、自分の過去を語り始めた。
「学校に行っても授業は退屈だし、金持ちの奴らがいじめてくるし。行きたくないなーって思ってたらお母さんに怒られちゃってさあ。それで食べ物持って逃げてきたんだよね」
彼は少し不貞腐れたように言い、草むらに腰を下ろした。その横顔はどこか寂しげで、けれども自由を謳歌しているようにも見えた。
「僕、間違ってるかなあ?授業なんて本を読めば十分だし、いじめてくる奴らなんてどうしようもないじゃん?」
彼は私を見つめて問いかける。その瞳には純粋な迷いと、どこか自分を正当化したい気持ちが混ざっているようだった。
私は少し迷った。学校という場所がどんなものか、私は知らない。通いたくても、そんな余裕はないのだから。でも、彼の言葉に重ねて浮かんできたのは、自分の苦しみだった。誰かに追い詰められる日々、逃げることでしか心を守れなかった現実。
「…あんまり辛いなら、逃げてもいいんじゃないかな。」その言葉は、彼への答えであると同時に、自分自身への慰めでもあった。
彼は私の言葉に目を輝かせ、力強く頷いた。「そうだよね!」彼の顔がぱっと明るくなるのを見て、私の胸には不思議な温かさが広がった。
やがて彼は立ち上がり、伸びをしながら言った。
「そろそろ戻らないと家に入れてもらえないかも!また明日も会わない?」
その言葉に、私は思わず目を見開いた。こんな私に、また会いたいと言ってくれるのだろうか。その驚きは、すぐに微笑みへと変わった。
「…うん、わかった。明日も会おう。」
彼は満足そうに笑い、花畑の中を軽やかに走り去っていった。その背中が小さくなっていくのを見つめながら、私は胸の奥に痛みを覚えた。彼は、私なんかには釣り合わない存在だ。彼の世界は明るく輝かしく、私のような醜い暗闇とは交わるべきではない。それでも、彼は私に優しくしてくれる。その優しさが嬉しくて、でも同時に苦しかった。
やがて、私もゆっくりと帰路についた。足取りは重い。家に戻れば、きっと「母親」はもう起きているだろう。私のことなど、きっと心配などしていない。冷たい言葉や暴力が待っていることを想像すると、全身が震えた。
それでも、私にとって帰る場所はそこしかない。振り返れば白い花畑が風に揺れている。今日という一日が、まるで幻だったかのように感じられた。でも、あの少年と過ごした時間だけは、確かに心に刻まれている。明日、また彼に会える。それだけが、私の暗い世界に小さな光をともしてくれている気がした。
ꕤ